八景仙人

仙人のような生き方を模索してる八景のメッセージ

偉大なゴルフキング ベン・ホーガン 復活劇1

 

2019年マスターズ、

かつて無敵を誇ったタイガーウッズが長いトンネルを抜け、

再び栄光のグリーンジャケットに袖を通した。

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4度の手術を乗り越え、

身の回りでもスキャンダルに見舞われながら

2019年の偉大なカムバックと言われた

このシーン、

しかし、当のタイガーウッズは、

「私のはカムバックとは言えない。

本当のカムバックはベン・ホーガンのようなカムバックだ。

私がゴルファーだからベン・ホーガンを挙げる訳ではない。

これまでのスポーツ界のカムバックにおいて、彼のカムバックこそが最高。

それに比べたら私のは大したことはない。」

 

アメリカの老舗新聞社「サンヘラルド」のある記者はこう語る

ツイッターで大げさに煽られていますが(タイガーのカムバック)、

果たしてそうでしょうか?

また、タイム誌は、そのウェブサイト上で、

アメリカンスポーツの歴史の中で「最もスリリングなカムバック」の完成と言いました。

USAトゥデイ誌は "時代のカムバック "と呼んだ。

Twitter

テニス界のレジェンド、セレーナ・ウィリアムズが、

"他に類を見ない偉大さ "と表現しましたし、

"バスケットボール界のスター 、スティーブン・カリーは

"スポーツ界の最高のカムバック"と 呼びました。

 

その記者は続けます。

「私はタイガー・ウッズのカムバックを 侮辱するつもりはありません。

私が言っているのは、

"ベン・ホーガンのカムバック"を知っての上で言っているのか?」という事だ。

 

その史上最高のカムバックは、ゴルフがテレビで中継される前、

パーシモンがメタルウッドになる前、

TwitterなどSNSで「史上最高」とか「神××」と簡単に誰もが発信出来る前に起こった。

 

その史上最高のカムバックと言われる主人公は

「ベン・ホーガン」

 

何故、ベン・ホーガンが偉大かというと、

  1. 選手としての輝かしい成績
  2. ドラマティックな復活劇
  3. ギアの開発・設計
  4. 近代ゴルフの祖と言えるレッスン書の出版
  5. 鍛錬と精神論

 

偉大な成績を収めただけなら

各スポーツ界に多くの選手の名前が挙がるだろう。

しかし、これだけ真摯に自分の人生を一つのスポーツに捧げた人は

彼以外に誰の名前が挙がるだろう?

 

その「ベン・ホーガンのカムバック劇の原因」は

彼が選手として栄華を極めている最中に起こった。

1949年2月2日

ツアー移動中、自身が運転するキャデラックに

視界不良で車線を間違った10トンの大型バスと正面衝突を起こしたのだ。

「骨盤の複雑骨折」

「足首」「鎖骨」「肋骨」の骨折

しかし、彼の命を最も危険にさらしたのはあらゆる箇所に出来た血栓

彼の粉々になった骨が大静脈のあらゆる箇所の血管を傷つけ、

血の塊を作ってしまったのだ。

 

最悪なのは

事故直後、誰も救急車を呼ばず、

駆けつけた警察も死亡したと思っていたほどだ。

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ベン・ホーガンの事故車 運転席が潰れている


同乗していた軽傷のヴァレリー・ホーガン夫人の「夫はまだ生きている!」との声で

ようやく救急車が呼ばれ、到着したのは事故から1時間半後。

その間、ベン・ホーガンは10回ほど意識を失っては取り戻し、

その度にクラブをしぎる仕草をし、

「フォアー」と呟いたと言う。

事故直前の瞬間が「マズイ!」という潜在意識に焼き付いたのだろうか?

根っからの彼のゴルファー精神を表しているようで切ない。

 

その後、身体を固定する大手術は成功し、

日に日に良くなっていき、

命の危険は無くなったかのように見えた。

しかし、四日後、

身体中に出来た血栓が肺につまり、

衰弱し始めたのだ。

肺だけではなく、両脚も塞栓が出来るほどになっていた。

塞栓ができれば血液循環はストップされる。

身体の端から壊死して行くのだ。

当時の循環器系の名医が用意されたB29により8時間後到着、

3リットルの輸血の後、大手術が始まった。

 

ゴルフはおろか、歩く事も無理ではないかと診断され、

もはや命を維持することが最優先となった。

妻、ヴァレリーは生きていてくれさえすればいいと

教会で祈り続けた。

 

アメリカの新聞各紙は

ベン・ホーガンの大手術を報じ、

同時に死亡記事まで用意したと言う。

 

ベン・ホーガンは前年、PGAツアーで10勝を挙げ、

それ以外の試合も常にトップ10入り、

36歳のベンホーガンはパワー、技術ともに円熟期を迎え、

全盛期と言われていた。

特にアイアンショットは正確無比で、

精密機械と呼ばれたり、

狙った獲物は逃さないことから「ホーク」との異名があった。

試合中はほとんど言葉を話さず、

愛想のないことから「アイスマン」とも呼ばれ

強さは誰もが認めるが、

好きかと言われれば「嫌い」と言うファンも多かった。

 

しかし、当時の事故報道で、

妻が軽傷だったのは

ベン・ホーガンが衝突直前にヴァレリー夫人に覆い被さり、

その為、妻が軽傷であったことが報じられると

事態は一変した。

誰もがベン・ホーガンの愛の深さを知り、

平穏な生活への復帰を願ったのだ。

連日、300を超えるファンレターが病院に届き、

ベンの回復ぶりを各新聞が報じた。

 

59日目、長い入院生活を終え、

ベットに縛られたまま家に向かうベンホーガンの体重は54キロにまで落ちていた。

それでもやつれ果てたベン・ホーガンが生きながらえたことだけで

ゴルフファンには十分なニュースだった。

 

医師からは歩けるようになるかも疑問と言われたが、

リハビリでは積極的に歩行器で歩き、

2、3歩歩いては休憩の繰り返し。

疲れ果てると、ゴムボールを握って握力の強化に努めた。

退院してからのリハビリで驚異的な回復を見せたベン・ホーガンは

ライダーカップの主将就任の要請を受諾した。

もちろん選手としてではなく、

前年無敵の強さを誇ったベン・ホーガンが動けるのであれば

監督してもらいたいと言うのが本音だった。

ジミーディマレーを含む、アメリカ代表の選手は

これでベン・ホーガンの精神的な喜びになればと思っていた。

アメリカ対イングランドのゴルフ対決というより、

ベン・ホーガンの精神的支えになればと考え、

選手としてではないが、ゴルフ界に戻ってこられたベンを温かく迎えるつもりでいた。

しかし、第二次世界大戦で兵士として戦ったベン・ホーガンに

そんな悠長な気持ちは全くなかった。

彼にとって米英戦は戦いそのものだったのだ。

日の出とともに選手を起床させ、

早朝から日が暮れるまでの練習を科した。

練習が適当だった時代に、

ベン・ホーガンは自分と同じゴルフに対しての真摯さを要求したのだ。

まさかこんな苦しい練習を要求するとは思ってなかったディマレーは

「これじゃ、ゴルフをしに来たんじゃなくて、戦闘訓練と同じだよ」と訴えたという。

 

それだけではなかった。

ベン・ホーガンはイギリスの料理が口に合わず、

アメリカ選手が力を出せない場合を考慮し、

本国から牛肉500キロを持ってきていたのだ。

これにはイギリスサイドが

本来なら招待国は受け入れ側の料理を受け入れるべきとの

声明を新聞紙上で発した。

当時、「肉騒動」として物議を醸した。

ベン・ホーガンは対応に追われたという。

 

しかし、この考えはまさに戦いの本質で、

歴史上の戦で兵糧で負けた戦は枚挙にいとまがない。

松井秀喜が大リーグ挑戦で、専属シェフを雇ったことを考えれば、

ベン・ホーガンはスポーツの世界でかなり進んでいたと言える。

 

ベン・ホーガンの神経質に見える行動や

目の前の戦いにいつも真剣であったのには

幼少からの彼の生き様にある。

 

8歳の時に鍛冶屋を営んでいた父親が隣の部屋で拳銃自殺、

何事かと駆けつけた母親の横で

父の変わり果てた姿をジッと見つめていたのがベン少年。

それから彼の生活は一変した。

生活を支えるために新聞販売の仕事を始める。

当時の新聞販売は駅での直接販売。

人の流れが多い改札口が人気で、

それには縄張りがあった。

小学生のベン・ホーガンは一番条件の悪い場所でも腐ることなく

生活のために必死だった。

時折いい場所が空いているとそこで販売をした。

もちろん、同業者から追いやられることもあった。

次第にベンホーガンは小柄ながらも腕っぷしの強さで

「いい場所」を確保するようになる。

喧嘩はめっぽう強かったようだ。

11歳の時、稼ぎがいいということでゴルフ場のバッグ担ぎ、

いわゆるキャディーの仕事についた。

11歳の少年に大人のゴルフバッグを担ぐ労働は大変だったことだろう。

 

ここでゴルフの面白さに目覚めた彼は、

自らも休みになるとクラブを振り回すようになる。

その頃、クラブは高嶺の花で、

とてもベン少年が気安く持てるものではなかった。

不用品として彼に与えられたクラブは左利きの一本のクラブ。

それでも嬉しい彼は

左利きのクラブを毎日振り回して練習に励んだ。

キャディーの仕事は彼にとっては

仕事というより、

毎日が発見の連続であった。

 

上手い人のスイング、

コースの攻め方、

ライの条件

毎回、じっくり観察した。

 

他のキャディは貰えるチップの多いことが一番の目的のため、

お金持ちのお客に就きたがったが

ベン少年は誰も就きたがらないブルーカラーのあるお客に積極的に就いた。

何故ならその選手のスイングが大変参考になったからである。

そうして、

彼は仕事をしながら、

ゴルフというもののあらゆる観点から観察し研究した。

母親から頼まれた買い物も

ただ漠然と行くのではなく、

あの家までなら何ヤードくらいで、

狙うなら9番だな、という具合に距離感を養ったり、

実際にクラブを握ったつもりになってスイングしたりするのだ。

また、ベンは自分の悪い癖を知っていて、

特にバックスイング時に左膝が前に突き出ることを嫌い、

ふと、その癖が出てないかチェックしたりもした。

 

そんな熱心なある日、

念願の右利き用のクラブを手に入れた。

しかし、これまで左利きで打っていた癖が抜けず、

当初は右打ち用のクラブを右手を手前にして握り打っていたのだ。

それでも器用なベン少年はうまく打つことができていた。

ある日のこと、

大人に指摘されてから普通通り握るようになった。

これがベンにとっては大変だったよう。

これまでのやり方から全く違う方法にするというのは、

すぐには上手くいかない。

前の方法に戻りたがる自分が何処かにいるからだ。

根気よく続けることで、

真に新しい方法を受け入れるということは

自分への信念がなければ出来ないことにも気がついた。

また、自分なりの気づきがなければ、

ただ漠然とポスチャー、

いわゆる形だけを真似ても、

それは出来ていることにはならない

という大変重要なことに至ったのだ。

左利きのグリップから、右利きグリップへ変更するという事件は

ゴルフはまず第一に正しいグリップからという

ゴルファーが一番疎かにする基本を最重要視した

ベン・ホーガンらしい大事件だったといえよう。

 

 これらは単なる一例だが、

ベン・ホーガンは終生、ゴルフ日記なるものをつけ

昼夜問わず、思いついたことをメモにした。

そして、驚くことに晩年になっても

新しい発見があったという、

ベンは「誰よりもゴルフのことを考えた」と自負していると語っているが、

彼の多方面のゴルフにまつわる実績を考えれば

それも大いに頷ける。

 

さて、話を元に戻そう。

イングランドでのライダーカップに勝利し、

帰国の途についたベン・ホーガン。

事故から7ヶ月後の9月、

ついにクラブを握ってボールを打つまでに回復する。

しかし、まだ全快していなかったベンは

ルフレンジでスイングの度にひっくり返ることになる。

その様子はベン・ホーガンの伝記映画「フォロー・ザ・サン」で描かれている。

あれだけ強気なベンが「俺はもうダメかもしれない」と

弱気を吐いたと言う。

 

しかし、その4ヶ月後、

事故から数えて11ヶ月後、

12月10日、初めて18ホールをプレーした。

そうして、その二週間後、

ロサンゼルス・オープンにエントリーしてきたのだ。

その際、前述のディマレーは「よく頑張ったね」と握手を求めた。

「試しに出てみようと思って」と言う差し出したベンの右手は

以前と変わらないゴツゴツと豆だらけの手だったとディマレーは証言している。

 

観客の全員と言っていいほど、

ベン・ホーガンの応援に周るなかプレーが始まった。

無事に回るだけでも充分と思われる復帰戦に

なんとベン・ホーガンはライバル、サム・スニードと首位タイでフィニッシュ。

プレーオフに持ち込まれた。

プレーオフはサム・スニードに及ばず、

敗れはしたものの、この見事な復活劇にファンは歓喜した。

足を引きずりながら戦う姿に

グラントライス・ランド記者は

「彼は負けたのではない。彼の執念を支えるほど力が足になかったのだ。」と評した。

 

これまで彼をホーク、アイスマン、精密機械のように

何処か冷徹な扱いをしてきたゴルフファン、

そしてゴルフプレイヤーまでもが

ベン・ホーガンを心から尊敬するようになっていた。

そして、それに応えるように以前のような無愛想なベンでなく

談笑するベンの姿があった。

彼は事故で以前のような連戦に耐えられない身体になっており、

参戦するトーナメントも体調と相談しながら選ぶようになった。

それでも練習には余念がない。

誰よりも練習し、

誰よりも勝った。

そして、事故以来

痛みを和らげるためか

かなりの酒を飲むようになった。

また、事故で左目の視力がかなり落ちてしまっていた。

これは引退まで隠していたようだが、

実際はほとんど見えていなかったとさえ言われている。

その為、事故以前はパットの名手と言われていた腕前から

入れて当然のショートパットを時折外すことが多くなった。

左目視力の低下で

短いパットほど見た目と実際のラインの狂いが大きくなり

ベン・ホーガンにとっては致命的なハンデとも言えた。

 

しかし、何よりも鉄人ベン・ホーガンを苦しめたのは

スタミナを失ってしまったことだった。

納得できる体調で参戦することを考慮すると

年5、6戦が妥当だった。

それまで年間30戦以上のトーナメントを戦ってきたことを考えると、

激減である。

 

ベン・ホーガンは参加するトーナメントを絞り込むことにした。

復活してきたベン・ホーガンを一眼見ようと、

出場さえすれば観客が大挙するのは間違いなかった。

ベン・ホーガンにとって、

その観客の前で不甲斐ない姿を見せるのは本望でないし、

それ以上にトーナメントを戦場と考えていたから、

やるからには勝たねばならなかった。