八景仙人

仙人のような生き方を模索してる八景のメッセージ

無限空間から旅に出る「スープマン」

自分はとても自由に生きているんだと思っていた。

普通の人に比べ、

とても恵まれていると思っていた。

 

しかし、それは間違っていた。

 

自分も誰かに助けてもらいたいと思っていたことに

ふと気がついた。

つまり依存していたのだ。

 

暇だなぁ、、、

つまらないなぁ、、、

何か面白いことないかなぁ、、、

 

こういった事が頭を巡る事がある

 

それはまだ未熟な女性が

白馬に乗った王子様が迎えに来てくれないだろうか?

とぼんやり考えているのと

自分も対して変わらないのだと

気がついて、その上認める事ができた。

 

外に出れば人に会う

家族と毎朝顔を合わす

だから自分は孤独ではないと思い込んでいた

 

それは所詮、幻のようなもので

一番低いレベルでの孤独感の満たし方

 

家族で自分の孤独感を満たすのではなく、

その家族をいかに孤独にしないか?

また邪魔をしないように努めるくらいのスタンスでないと

高いレベルでの接し方とは言えないのではないだろうか?

つまりそうでないと、

依存していることになり、

あれをやってくれない!とか

期待通りに動いてくれない!

という負のサイクルにいつ入ってもおかしくない状況なのだ。

 

だから、自分の孤独を満たすというより、

偶然や奇跡的な出会いの一瞬一瞬を楽しむ、

もしそんな出来事があれば面白いね!

それくらいの気持ちで

「スープおじさん」を始めてみよう。

ん!

いや、スープマンの方がいいじゃないか!

これからは日本にだけ目を向けるのではなく、

海外にも目を向けなくては!

そう、もしかしたら数年後、

アフリカで人気者になってるかもしれないのだ!

 

っていうか、

「スープマン」って何ですか?

いやこれね、

これまで 色々作品を作ってきて思ったことなのですが、

一番誰でも親しめる心のこもった作品は「料理」

ここに全ての「ものづくりの原点」が詰まっていると思う。

つまりモノづくりの心得は「料理に始まり料理に終わる。」

それくらいの言ってもいいように思った次第である。

そして、もし誰か一人でも喜んでくれたら

それが喜びの原点。

 

それが叶った瞬間

原点に戻って来れたことを静かに感じよう。

長い旅から帰ってきたように

しみじみ懐かしむのだ。

「飽き」という恐ろしい煩悩

私は、

一事業主として働いている。

仕事上で人と会うことはない。

自分で決めて、

自分で行動して収入になっている。

 

だからあんまり一般的にいう「働く」という感覚ではないと思う。

 

「効率よく」とか「稼ぐ」ということよりも

「楽しい」とか「夢中になって」ということの方が先立つ。

 

「楽しい」を維持するのも大変だ。

何をやっていても

「飽き」という恐ろしい魔物が

気付くと張り付いてくる

人間の最も恐ろしい煩悩ではないかとさえ思う

 

今がまさにそれだ

だからその気持ちを形にしようと

こんなものを書いているのだ

 

自分の症状を問診し診断している。

そして冷静に結果を見て

あー、くだらないものを書いてしまった

どうせなら何か作ろう

その方がマシだ

とか何とか言って

自分の好きで始めたはずの作業に戻るのだ

 

この「飽き」は加齢とともに敏感というか育つものらしい

若い時には「退屈」という気持ちはあっても

「飽き」という気持ちは少なかったように思う

現在、50を過ぎ

「飽き」という煩悩がとてつもなく大きな障害となってきた。

 

異性への関心

釣り

ゴルフ

カジノなどギャンブル

その他もろもろ

これまで、

命をかけて頑張ってきた事でさえ

どれもくだらなく感じるようになってきた

面倒臭いと思うようになってきた

 

ヤバいぞやばい!

それをも忘れるような夢中になれるものを探すか

それとも勘違いのように

何かに夢中になるフリをして取り組むか!?

そうしてたらいつの間にか本当に夢中になってるかも知れない!

そうだ、考えるな

考えるな

どうせ全てくだらないのだ!

 

くだらないと考えるのも

くだらないのだ!

 

ものを作る上でこの考えが一番の障害だとつくづく思う。

YouTubeに真剣に向き合おう 恥ずかしがってた自分にさようなら

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遅くない! ネガティヴからの脱却

2021年、今からyou tubeを始めよう

今さら、、、、

そんな気持ちが込み上げてきて、

なかなかやる気が起きない。

もう既にいろんな動画がアップされていて、

有名人などがやっても簡単に視聴回数が上がるものでないのも分かっている

そんなに甘くないのだ

だからこそ「やるのならば」

適当な気持ちでは続けられないし、

無駄な努力に終わってしまう

まず、やるのであれば、

この「もう遅い」とか「無駄になるかも?」

そういった自分のネガティブな気持ちとの戦いであるということを肝に銘じ、

真剣に取り組む決意が大事であろう。

そんな50過ぎのオヤジのyou tube格闘日記である

コンテンツの作り込み 丁寧さに心がける

まず、コンテンツは安易なものではイケナイ

you tube初期ならばそれが通用した

しかし、もうあらゆるジャンルの番組が存在し、

あらゆるエキスパートがyou tuberとして活躍している

そんな中で参戦するのである。

誰かの真似などでは単純に視聴回数が稼げる訳がない

だから真似をするにしても、

もう少し手を加えたら見やすいものになるかも?

親切な動画になるかも?

といった自分サイドよりも

視聴者サイドで考えることも大事だと思うのだ。

それが結論として、

自分に返ってくるくらいの気持ちで作り上げる事を重視していこう

 

という訳で、

既に何点か動画をあげてみた

しかし、クリック数が伸びない

私の主な動画は「How Toモノ」「商品紹介」動画である

私のアクセサリー製作技術と私のネットショップで販売している商品を紹介している

いわばニッチな動画である。

そんなもの誰が見るの?

確かにそうです。

こんなニッチな動画はまず、視聴者獲得の裾野が狭く、

とても多くの人にアピールするのは難しいだろう。

そもそも情報系のコンテンツは

より多くの人が求めている情報出ないと難しい

しかし、冒頭に述べたように

私が多くの視聴者をいきなり求めてもとてもでは無いが

非常に難しい事である。

そして、専門外のことをしても

専門の方々には到底追いつけないのである。

だから、本当の自分を表現するものでチャレンジするという方向で

頑張ってみることにしたのだ。

サムネイルとタイトル 見つけてもらう努力

さて、アップしてみた動画の問題点で真っ先に上がるのが

視聴回数が伸びない事。

数回とか数十回がほとんどで、

数百師匠されていたら「よく見られてるな!」くらいの回数だ。

何故だ!

まず、考察してみると、

アップしたての動画は積極的に関連動画として、

同じような動画を見た人にアルゴリズムでサムネイルが放たれる

また、テキスト検索で表示される

この二つが見てもらうキーとなる。

 

まずサムネイルは視覚に訴える

小さいサムネイルで瞬間的に「クリック」してもらうには

内容と魅力的な色合いが重要

有名ユーチューバーのサムネイルを見ていると

原色と対比色をうまく使い「パッと見やすく作ってある。」

 

私はこれをやってなかった!

動画を制作した動画の中から適当にサムネイル画像を選んでいたのだ。

そこで変更したサムネイルがこれだ。

改善前と改善後である。

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コレが最高ではないが、

現段階で私が制作できる最高サムネイルである。

改善前に比べると、何だかクリックしたくなる様に仕上がったと思う。

私はコレまで述べ300点以上の動画を制作し、

YouTubeにアップしてきた。

そうしてコレまで300点以上の改善前のようなサムネイルをアップしてきたのだ。

ほとんど素顔で出歩いてきた様なものである。

コレから数ヶ月様子を見てみよう。

エディタを使いこなせ リピーター獲得

動画一つ一つの詳細を見ると

「エディタ」という機能がある。

これは動画に「音楽」「ぼかし」「再生リンクの登録ボタン」を挿入できる機能である。

私の場合、「音楽」と「ぼかし」は編集の段階で挿入しているので使わないが、

「再生リンクと登録ボタン」はとても重要だ。

動画の最後の20秒間に

見せたい動画や再生リストのリンクが貼れるのだ。

そして重要な登録ボタン。

登録ボタンは動画画面右下に常駐しているが、

もう一度動画上で紹介できるのはありがたい。

最後まで見てくれない視聴者が多い中で

最後まで見ていただけた視聴者は高確率で登録してくれるかもしれないからだ。

 

私はこのエディタもほとんど触っていなかった。

約300の動画を見直してリンクを貼ると同時に

無駄な画像の削除もした。

数回の見られていない動画、

しかも下手でどうしようもない動画は自分のためにも削除したのである。

 

アナリスク 反省と探求

あとアナリスクも見方がよくわからなかったが時々見ることにしよう。

何故、見られているのか?

何故見られないのか?

ほとんどさっぱり分からないが、

少しずつ理解することでより良い動画制作に役立つことは間違いない。

これもおいおい気が付いたことを書き留めよう。

そして、10万人登録へ

 

2020年1月現在、2650人の登録者数が

3月9日の時点で2736人になった。

サムネイルを変更し出して少しだが増えている。

それよりも質の良い動画をアップする回数を増やしたいところだ。

せめて週一回、頑張っていきたい。

さて、50過ぎ親父のユーチューバー計画やいかに?

 

考える事ができる葦

人間は考える葦である

 

この一文を聞いた事がある人はいるでしょうか?

恐らく中高生までに一度くらいは学校で聞いた事があると思います。

 

幼少から神童と呼ばれ、

数々のジャンルで活躍したブレーズ・パスカルの有名な言葉だ。

 

「考える葦である」と言うのは

「考えてしまう」という他動的なニュアンスにも聞こえるので

「考える事ができる葦である」と言う方がしっくりくるのであります。

そして、「考える事ができる」と言うことは

つまり、「考えない」という選択肢もあるという訳で、

漠然と生きていると考えずに生きている「葦」になってしまうのである。

 

さて、それでは「考える」とはどう言う事であろうか?

日本の教育では「考える」と言うことは

まず「人に迷惑を掛けない。」と言うことが真っ先に思いつく。

常識、体裁を考え、

目上の人には敬語を使い、

謙虚に生きることを「考える」と教えられる。

 

これまでの日本は

先人が築いた組織やグループに属することで社会で生きていく事ができた。

だから、先人に敬意を表し、

体裁を考え、敬語を使って話してきた。

時に理にかなわないことでも、

明らかに知的レベルの低い先輩にも「考えて」接してきた訳である。

 

しかし、それもわずかなうちに綻びてしまった。

 

今の若者は自分の将来を考える時、

どこかに属し、一生その組織に貢献し生きていこうと決意している人は

一昔前に比べると少なくなっているのは明らかだ。

と言うより、

将来を冷静に見据えて、

組織所属一択というのは、

先見の明がなさすぎて危なっかしいように思うのだ。

 

そこで、

「考える事ができる葦」なのである。

私たちの存在は、植物と何ら変わらない。

しかし、自分の生きていく環境を考え、

選択することができる。

頭が固くなって、

固定観念で埋め尽くされる前に、

親や教育機関に洗脳される前に、

自分で考え行動するのだ。

八景自己紹介

こんにちは八景です。

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自分を花として育てよう

私は人生の半ばを過ぎた者です。

私の人生を振り返りますと、

自分の好きなことに情熱を注ぎ、

少しずつ技術を上げながら生業とし生きてまいりました。

「何屋さんですか?」と

良く聞かれるのですが、一言で答えられないです。

他人はすぐに相手を理解と言うか、

手っ取り早く型に嵌めようとしてきます。

しかし、定年まで同じ仕事で過ごすのが公務員でもなければ難しい時代となり

これをやっていれば大丈夫なんてことはなくなりました。

柔軟に対応して生きていく対応力が大事だなと思うのです。

 

人生は自分の才能をいかに伸ばして、

生業とするかに掛かっています。

もちろん、すぐにうまく行きません。

少しずつ、少しずつ積み上げていくものだと確信しています。

若い頃は少しでもお金になる仕事をバイトにしたりしてきました。

私は男なので、

もっぱら肉体労働です。

新しい高速道路の建設や、トンネル工事の土木作業です。

これらの仕事には大変助けられました。

と言うのも、山奥で住み込みで数週間単位で働くため、

一切お金を使うことがなく、

終わった時には給料を全額持って帰ることができたのです。

そうして溜まったお金で、

自分への投資をしてきました。

他にも多数やってきましたが、またおいおい紹介していくかもしれません。

 

どんな仕事でも、

お金に囚われてしまうと、

面白みにかけます。

どんな仕事でも何かヒントや

学ぶべき要素があるはずです。

 

私はブラックとか労働条件に文句ばかり言うのを好きになれません。

自分で何かに生かすことを諦めているように見えるからです。

 

自分の未来に輝く光を注ぐのは

やはり自分しかいないのかなと感じています。

 

誰かにやってもらう

誰かのせいにする

それでは未来も希望も見えないように思うのです。

責任転嫁は「目隠し」のようなもの

または自分で付ける「足枷」かもしれません。

 

私は50歳を過ぎましたが

まだまだこれから頑張らなくてはなりません。

自分に水をやり、

肥料をやり、

心と身体を世話するようにケアして、

そうして自分を花のように咲かせるために、、、、、

 

自己紹介

何とか高校に入学したものの

お金を払って学ぶという「学校という組織」に馴染めず、

在校中から学びながらお金を貰えるという感覚でキャラクターショーなどの仕事に従事。

あまりに登校しない為、卒業できないほど。

学校は卒論という形で原稿用紙100枚以上の提出を求めてきました。

それができたら卒業ということです。

それを前向きに捉え、書くうちに500枚程度のものになり提出して無事卒業させていただきました。

しかし、形であってほとんど中卒の様な者です。

両親も最終学歴は中卒です。(今ではもしかしたら珍しいかもしれませんね。)

やはり「蛙の子は蛙」

「苦労したくなかったら大学に行け!」そう言われた時代に育ちましたが

むしろ学歴に囚われて無駄な苦労せずに済んだかもしれません。

色んな組織に関与して「生かされている」無駄な感謝にがんじがらめになることなく、

自分で勝手に生き抜く、もしくは生きながらえてきました。

幸不幸は考え方、

心の持ちようかもしれないですね。

 

尊敬する人、勇気をもらえる人

エルトンジョンとベンホーガン 

こちらの二人は一見共通性がないように思えますが、

意気込みと魂の燃焼力は同じものがあります。

何かに頑張ろうと思う時、

誰でも勇気づけられる存在が必要だと思うのですが、

私は尊敬するこの二人に

大変な勇気をもらいました。

時々、ゴルフやエルトンの世界観を紹介するのもその為です。

 

人生5毛作

人生一回勝負ではないと思っております。

何かに興味を持って

一生懸命やっていると、

花は5回くらい咲くのではないかと思っております。

だから、いつでもまだ見ぬ花のために

アンテナを張って

心を込めて行動に移すことが大事だと信じています。

 

そんな訳で

何となく興味を持った方の

ヒントになればと思い書き連ねています。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

ベン・ホーガンのこだわり ボール

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ベンホーガンは自分の打つボールに大変なこだわりを持っていた。

それは時に意図しない回転を見せるボールに対して

不信感を持っていたのだ。

 

昔は木製ボールの時代もあった

それから羽毛を革で包んだボール、

そしてゴム芯に糸を巻いて、さらにゴムでコーティングしたボールと進化を遂げていった。

当時はとても雑な作りで、

中の芯が歪なものでも外からは分からないことから

かなり質の悪いものも出回っていたようだ。

 

ベン・ホーガンは自分が自信を持って打ち抜いたボールが

おかしい動きをするボールの存在に気がついていた。

そのため、試合に出場する前に、

ボールのバランスをチェックして満足するボールを選定していたのだ。

その方法とは、まず塩水を用意し、 

マジックで印をつけたボールを浮かべ回転させてみる。

何度やっても同じ位置で止まるボールは中の芯が歪んでいる事を指し、

毎回違う位置で止まるボールこそ、

均一でバランスが取れたボールだという。

そして、ボールを握った瞬間にコンパウンド

つまりボールの柔らかさがわかるという特技も持っていた。

ベン・ホーガンの手の感覚は繊細で、

その感覚を活かすため、生涯手袋をすることは無かった。

 

ベンホーガンはクラブ契約をマクレガーとかわしていた。

長く大事に使用されるクラブと違って、

ボールは消耗品。

会社としては一番利益が出るボール市場はうまみが多く、

スター選手のベン・ホーガンに新規参入のマクレガー製ボールの使用を依頼した。

しかし、当のベンホーガンはマクレガー社のボール使用を断った。

数100ダース送られても、

自前で購入したボールしか使用しなかったという。

そのボールが「スポルディング」と「タイトリスト」のボールであった。

当時、まだ無名だったタイトリストをスタープロが支持した訳だ。

その上、1953年度の3大メジャー制覇というのは

「タイトリスト」にとってはこれ以上ないほどの宣伝効果があった。

 

面白いことにタイトリストのボールは

それまでプロゴルフの世界で生きてきた人材から生まれた訳ではない。

趣味でゴルフをしていた一男性の自信を持って打ったパッティング。

そのボールがヨロヨロと変な回転をしたことが発端。

彼はボールの転がりに納得せず、

家に帰ってボールを解体し、

中を確認したところ、

歪な芯が出てきた。

これではまっすぐ転がるわけがない!

そうして質の良いボールを作ろうと試みたことで生を受けることになる。

 

今では何処の社のボールを使っても

転がりが悪くて入らないなんてことはない。

転がりが悪いのは、打ち方が悪い

それが当たり前の現代。

 

でも、

ゴルフボールのディンプルも

今回の芯も

ピンパターのパターヘッドの重量配分も

ちょっとした気付きから生まれているのだ。

ベン・ホーガンが晩年になって、

「今でもゴルフをしていて新鮮で斬新な発見がある。」

そう語っていたのも

常にアンテナを張ってゴルフをしていた

ホーガンならではの言葉だ。

 

私たちもゴルフ雑誌やYouTubeでヒントを探したり、

影響を受け続けるだけでなく、

自分で感じ、考え、発見することを大事にしていきたいものだ。

 

 

偉大なゴルフキング ベン・ホーガン 復活劇2

 

10トンを超えるバスとの正面衝突事故から11ヶ月。

ベン・ホーガンは驚異的な回復を見せ、

1949年12月10日、トーナメントに戻ってきた。

しかも首位タイで プレーオフに持ち込み

敗れはしたものの2位は立派な復活劇だった。

 

しかし、当のベン・ホーガンはそれで満足していなかった。

翌年からのツアーは万全を尽くして、

参加する試合の選定から始めた。

 

そうして、1950年の全米オープン

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この写真は 

ゴルフのみならず、

スポーツ界の写真において

最高傑作の一つと言われる

最終18番の残り約210ヤード先のグリーンを狙ったショット

ボールはピンから12ヤード横に付けて

優勝を確実にしたショットのフォロースルーを捉えた写真だ。

 

このホーガンの写真は多くを物語っている。

大挙のギャラリーは過熱した試合模様を、

その中にベン・ホーガンを真似たキャップを被る男性は、

ベン・ホーガンへの憧れを、

もしくはゴルフをする方なら、

ベン・ホーガンのまるでショートアイアンのような

軽いフォーロースルーから驚きを得るかもしれない。

210ヤード先をこのようにコントロールショットのように狙えるプロゴルファーは

過去にも現在にもそんなにいないだろう

 

世界一美しいと言われたスイングの持ち主は

大事故から16ヶ月後、

全米オープンで奇跡の復活を遂げた。

この優勝をベン・ホーガンは後に

どの勝利よりも嬉しかったと語っている。

「だって、またゴルフが出来る事を証明してくれたから。」

 

この勝利は映画界を動かした。

ベン・ホーガンの復活劇を伝記映画として制作することになったのだ。

「フォロー・ザ・サン

伝記映画など、

存命中、いや現役中に作られるスポーツ選手が何処にいるだろう。

何だか縁起でもないし、

その後のプレーに支障がきたしそうだ。

 

しかし、ベン・ホーガンは反対のことを考えていた。

あまりにも加熱する新聞や雑誌、

時にはストーカーのように現れる人々、

前述のアイアン泥棒のような輩が

映画を見ることで減るのではないかと考えたのだ。

 

そうしてべン・ホーガンは

その映画の演出に積極的に参加し色々注文をつけた。

特に主人公役のグレン・フォード阿波踊りのようなスイングには我慢できなかったようだ。

他にも撮影に使われているクラブが年代にそぐわないだの

道具にまでこだわった。

撮影が1日遅れるたびに1000万円以上の支出が増えることを

監督がベンに伝えても全く意に返さなかったという。

監督は殴り倒したい気持ちになったが、

プロという立場から見て、

「ベン・ホーガン」の完璧なまでの観察眼と頑固さに

尊敬の念も抱いたという。

 

そんなてんやわんやの撮影が終わり、

映画が公開された。

評論家からはキャストなどいろんなミスマッチを指摘され、

当のベン・ホーガンも選手仲間から

映画の演出等に関わらなかった方が良かったのでは?と言われる程度の出来栄えだった。

事故当時のベン・ホーガンの執刀医や

B29を操縦したパイロットまで呼ばれた上映会は

思った程の盛り上がりは見せず、

ベンホーガンもそれ以来見ることはなかったと言う。

 

それから40年以上経ってから

再びこの映画を見た時

ベン・ホーガンの目から大粒の涙がこぼれた。

当時まだ、戦いの場にいたベン・ホーガンには見えなかった何かが

80歳を目前にして見えたのかもしれない。

 

さて、映画にもなったベンホーガンの復活劇。

これで終わりではないのが、

ベンホーガンの鉄人たる所以だ。

 

映画が公開された「プレミア・ショー」の2日後、

ホーガンはオーガスタ入りした。

10日後に控えたマスターズに出場するため、

3000球近い打ち込みを行い、

練習ラウンドを重ねた。

練習ラウンドで彼はグリーンの速さに乗せることより、

アプローチが重要になると考えた。

そうしてウエッジで転がすパンチショットに時間を費やした。

 

鋭い眼光のホークのマネージメントは完璧で、

他の選手が果敢にグリーンを狙って池や

深く設定されたラフに苦労する中、

淡々と絶妙のアプローチで攻め続け、

遂にグリーンジャケットに袖を通した。

 

球聖ボビージョーンズにジャケットを羽織るのを手伝われ、初のマスターズチャンピオンに輝いたベンは

もう、これでメジャーは勝たなくても良いくらい嬉しいと語った。

しかし、それは本当ではなかった。

次に出場した全米オープンでも優勝し、

同一年でメジャー2勝という輝かしい成績を残したのだ。

 

今ではメジャータイトルと言うと、

これに全米プロゴルフ選手権全英オープンの4つを指す。

しかし、当時は船での移動が通常で、

日程的に4つに全て参加するのは無理であった。

また、ベンホーガンも体調的に長い船旅を嫌って、参加する意思はなかった。

しかも、ベンホーガンは、

左目の視力低下からパッティングに悩みを抱えており、少しでもラインとアライメントの狂いを無くすためにセンターシャフトのパターを使用するようになっていた。

 

今では当たり前のセンターシャフトのパターだが、

当時イングランドではセンターシャフトのパターは禁止されていた。

元々イングランドは隣のアイルランドがゴルフ発祥地で、

それを厳格にしスポーツとして体系化した経緯がある。

元々ゴルフは賭けを前提としたマッチプレーが基本。

とてもスポーツと言える代物ではなかった。その為大変ガラが悪く、

それを競馬のように紳士のスポーツとしたのだ。

フォーマルを重んじるイングランドに対して、

カジュアルを好むアメリカは紅茶戦争(正しくはボストン茶会事件)以来、

色んな場面で敵対する。

最後はアメリカ独立戦争に発展することになり、

今でも何処かしら米英の間には変な空気がある。

この流れでゴルフでも多くの確執があった。

 

例えば、今では当たり前のグリーン上のボールマークも

イギリスはダメでアメリカはOK

純粋にストロークプレーが当たり前の現在では考えられないかもしれないが、

マッチプレーは頭脳戦の要素もあり、

自分のボールを相手にぶつけてホールから遠くに飛ばしたり、

うまくいけば自分のをホールに入れるというビリヤード的要素もあったのが

昔のゴルフのルールだったのだ。

 

そんなこんなでイングランドアメリカとの間には

ゴルフに対する考え方に違いがあり、

ルールもその都度違って、 

してはいけないマークをして2打罰を課せられたり、

プレー以外のルールでも争っていたのだ。

 

ベン・ホーガンの劇的なマスターズの勝利で

全米プロ、全米オープンと合わせ、

3大メジャータイトル手中に収めた。

そうすると注目されるのは残りの全英オープン制覇。

事故の影響で、時間が掛かる船の旅を嫌い、

参戦しなかったベン・ホーガンだが、

生涯グランドスラム制覇を願う声が日増しに高まりを見せた。

 

しかし、センターシャフトのパターを使うベン・ホーガンに対し、

イングランドゴルフ協会はセンターシャフト禁止のルール。

必然的にベン・ホーガンの不参加は避けられないように思われた。 

動かしたのは世論だった。

何と、イングランドのセンターシャフトの古いしきたりに対して

「センターシャフトのパターを受け入れないのは世の中の流れからずれている。

にも関わらず禁止というのは、ベン・ホーガンを恐れての嫌がらせであり、

いかにもケツの穴の小さいイングランドのやり方だ!」

日本で言えば「東京スポーツ」のようなアメリカのタブロイド紙

世論を煽るように吹っ掛けたのだ。

 

小さいイングランドは威厳だけでは食べていけないのも事実

当時からアメリカでは大きなゴルフブームが到来し、

すでにゴルフ界を牽引する立場になっていた。

そのアメリカを差し置いて、

イングランドが頑なに威厳だけを唱えるのも無理が来ていた。

特にドラマティックな復活を遂げ、

しかも最強と言われるベンホーガンに恐れをなして、、、、などと言われては

それこそ威厳のない話であった。

 

1953年、事故から4年、

ベン・ホーガンの選手としての集大成の年となる

  • マスターズ:優勝
  • パン・アメリカン・オープン:優勝
  • グリーンブライヤ・プロアマ:2位
  • コロニアル・ナショナル・インビテーション:優勝
  • 全米オープン;優勝

5戦4勝の成績を収め、

その年の全英オープンの開催地「スコットランド」入りした。

「ホーガン、ついに英国のファンの前へ!」

 

直前まで、

全英オープン出場をはぐらかしていたベン・ホーガンであったが、

ウォルター・ヘーゲン、トミー・アマーをはじめ、

多くのゴルフ界の人物からの勧め、

特に「ゴルフ会の発展のため」という言葉はベン・ホーガンの心を動かした。

また、7月開催で危惧していた気温もさほど低くないこと、

そして、前述のセンターシャフトのパターがクラブルール改正により、

認められたことも大きかった。

 

英国のゴルフライターは

物静かなベン・ホーガンに対し、

アメリカのゴルフ大使に相応しい紳士」と評した。

しかし、当の本人は内心それどころではなかった。

自然のままの状態に近いスコットランドのコースはまるでベアグラウンドのようで

しかもディボットだらけという事を聞いていたからだ。

 

1946年ライバルのサム・スニードが

比較的綺麗なセントアンドリュース全英オープンを優勝したが、

翌年のスコットランド開催にはディフェンディングチャンピオンとして出場しなかった。

それほど、悪い条件とも言えるコースだった。

当時23歳でその後5回の全英オープン優勝を飾るピーター・トムソン

こう回想する。

「ホーガンがスコットランドのリンクスに戸惑いを感じたというがそれはないと思う。

リンクスも普通のコースも同じ。問題はボールの打ち方だ。」

 

ベン・ホーガンのダウンブローは

強風とペタペタの乾いたコースでこそ威力を発揮したのだ。

野生的な戦いが強いられるスコットランド

クリーンにボールを捕らえるホーガンのスイングは

地元ファンの心をも捉え、多くのファンを引き連れた。

ただ、ベン・ホーガンのグリーンでのパッティングは見ていられないほどであった。

ペタペタのフェアウェイに対して、ふかふかすぎるグリーンに手こずったのだ。

ベンに付いたキャディは

パットの度に「ウッ!」とか「あっ!」とか声を上げ、

遂にベンに「最後まで黙ってろ!」と釘を刺される。

 

首位タイで迎えた最終日、4ラウンド目(当時は最終日2ラウンド36ホール)がスタート。

15ホールを終えたホーガンは後ろの組のアントニオセルダのスコアを確認。

自分が2打差をつけてリードしている事を知ると、

16番235ヤードのPAR3のティーグラウンドに立った。

低いフラットで力みのないコントロールショットで放たれたボールは

ピンから3メートルの位置につけた。

ホーガンはティーグラウンド脇にいたCBSラジオリポーターのジョン・ディアーに

「これで俺の勝ちだ、すぐに行って放送(優勝)の支度を始めていいよ!」と告げた。

 

その通り、このバーディーパットを沈め、

最終18番でもバーディーを決め、

4打差をつけ全英オープン優勝。

1953年、同一年3大メジャータイトル制覇。

この時の記念ボール「タイトリスト2番」は全米ゴルフ協会博物館に飾られることになる。

 

帰国するベン・ホーガンが乗った「ユナイテッド・ステーツ号」

自由の女神像の脇を進む。

ラジオ、テレビ、新聞のカメラマン、記者たち、

そして、それを取り囲む警官、

「お帰りなさい、ホーガン!」の横断幕が埠頭にたなびく。

そのままニューヨークブロードウェイのでの優勝パレード、

推定15万人が訪れたと言われる。

これだけの騒ぎは第二次世界大戦終戦後のマッカーサー元帥帰国以来だったという。

約4ヶ月にわたるベン・ホーガンの6戦5勝

うちメジャー3勝。

「私は涙もろいタイプの人間とは正反対の人間だが、今日だけは嬉し涙が込み上げます。

今日以上にいいことは、私の人生に2度と来ないでしょう、、、」そう呟いた。

 

奇しくも、彼の言葉の予言通り、

ベン・ホーガンにとってこの全英オープン制覇が最後のメジャーとなった。

 

彼が偉大なゴルフキングある所以は

これら一連の選手としての輝かしい成績だけではない。

ゴルフに対する真摯な姿勢は

当時真面目な働き虫と揶揄された「日本人」とも表現された。

 

「僕があんまり練習ばかりするのを見て、皆んなは僕を馬鹿にしたもんだ」

ベン・ホーガンがそう回想する様に、

ゴルフのみならず、スポーツは一部の才能に恵まれたもので

練習でどうにかなるものではない、

欧米のスポーツ界には今でも残る風潮だ。

そうしていつの間にか日本もそれに流されて、

野球の投手などでも球数制限というルールが出来た。

 

ベン・ホーガンは自分のクラブを他人に絶対触らせなかったし、

スイングに向かう時の心構えはまるで「居合抜き」を思わせた。

無口で鋭い眼光で、

変わった奴だが、とにかく金属音のするもの凄いボールを打つ奴がいる

毎日毎日ゴルフ日記をつけて、

スイングの課題と気がついたことを書き留め、

誰よりも早くレンジで練習し、

暗くなるまでボールを打った。

170センチ64キロの体格はアメリカ人としては小さかったが、

努力と強い精神力で26歳でようやくツアー優勝。

そこから自分に自信が持てるまでさらに10年を費やした。

 

そこまでゴルフにのめり込んで

考えて考えて考え抜いたベン・ホーガンは

ボール、クラブ、そしてレッスンで多大な貢献を残す。

それらの話はまたの機会に、、、、