八景仙人

仙人のような生き方を模索してる八景のメッセージ

偉大なゴルフキング ベン・ホーガン 復活劇2

 

10トンを超えるバスとの正面衝突事故から11ヶ月。

ベン・ホーガンは驚異的な回復を見せ、

1949年12月10日、トーナメントに戻ってきた。

しかも首位タイで プレーオフに持ち込み

敗れはしたものの2位は立派な復活劇だった。

 

しかし、当のベン・ホーガンはそれで満足していなかった。

翌年からのツアーは万全を尽くして、

参加する試合の選定から始めた。

 

そうして、1950年の全米オープン

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この写真は 

ゴルフのみならず、

スポーツ界の写真において

最高傑作の一つと言われる

最終18番の残り約210ヤード先のグリーンを狙ったショット

ボールはピンから12ヤード横に付けて

優勝を確実にしたショットのフォロースルーを捉えた写真だ。

 

このホーガンの写真は多くを物語っている。

大挙のギャラリーは過熱した試合模様を、

その中にベン・ホーガンを真似たキャップを被る男性は、

ベン・ホーガンへの憧れを、

もしくはゴルフをする方なら、

ベン・ホーガンのまるでショートアイアンのような

軽いフォーロースルーから驚きを得るかもしれない。

210ヤード先をこのようにコントロールショットのように狙えるプロゴルファーは

過去にも現在にもそんなにいないだろう

 

世界一美しいと言われたスイングの持ち主は

大事故から16ヶ月後、

全米オープンで奇跡の復活を遂げた。

この優勝をベン・ホーガンは後に

どの勝利よりも嬉しかったと語っている。

「だって、またゴルフが出来る事を証明してくれたから。」

 

この勝利は映画界を動かした。

ベン・ホーガンの復活劇を伝記映画として制作することになったのだ。

「フォロー・ザ・サン

伝記映画など、

存命中、いや現役中に作られるスポーツ選手が何処にいるだろう。

何だか縁起でもないし、

その後のプレーに支障がきたしそうだ。

 

しかし、ベン・ホーガンは反対のことを考えていた。

あまりにも加熱する新聞や雑誌、

時にはストーカーのように現れる人々、

前述のアイアン泥棒のような輩が

映画を見ることで減るのではないかと考えたのだ。

 

そうしてべン・ホーガンは

その映画の演出に積極的に参加し色々注文をつけた。

特に主人公役のグレン・フォード阿波踊りのようなスイングには我慢できなかったようだ。

他にも撮影に使われているクラブが年代にそぐわないだの

道具にまでこだわった。

撮影が1日遅れるたびに1000万円以上の支出が増えることを

監督がベンに伝えても全く意に返さなかったという。

監督は殴り倒したい気持ちになったが、

プロという立場から見て、

「ベン・ホーガン」の完璧なまでの観察眼と頑固さに

尊敬の念も抱いたという。

 

そんなてんやわんやの撮影が終わり、

映画が公開された。

評論家からはキャストなどいろんなミスマッチを指摘され、

当のベン・ホーガンも選手仲間から

映画の演出等に関わらなかった方が良かったのでは?と言われる程度の出来栄えだった。

事故当時のベン・ホーガンの執刀医や

B29を操縦したパイロットまで呼ばれた上映会は

思った程の盛り上がりは見せず、

ベンホーガンもそれ以来見ることはなかったと言う。

 

それから40年以上経ってから

再びこの映画を見た時

ベン・ホーガンの目から大粒の涙がこぼれた。

当時まだ、戦いの場にいたベン・ホーガンには見えなかった何かが

80歳を目前にして見えたのかもしれない。

 

さて、映画にもなったベンホーガンの復活劇。

これで終わりではないのが、

ベンホーガンの鉄人たる所以だ。

 

映画が公開された「プレミア・ショー」の2日後、

ホーガンはオーガスタ入りした。

10日後に控えたマスターズに出場するため、

3000球近い打ち込みを行い、

練習ラウンドを重ねた。

練習ラウンドで彼はグリーンの速さに乗せることより、

アプローチが重要になると考えた。

そうしてウエッジで転がすパンチショットに時間を費やした。

 

鋭い眼光のホークのマネージメントは完璧で、

他の選手が果敢にグリーンを狙って池や

深く設定されたラフに苦労する中、

淡々と絶妙のアプローチで攻め続け、

遂にグリーンジャケットに袖を通した。

 

球聖ボビージョーンズにジャケットを羽織るのを手伝われ、初のマスターズチャンピオンに輝いたベンは

もう、これでメジャーは勝たなくても良いくらい嬉しいと語った。

しかし、それは本当ではなかった。

次に出場した全米オープンでも優勝し、

同一年でメジャー2勝という輝かしい成績を残したのだ。

 

今ではメジャータイトルと言うと、

これに全米プロゴルフ選手権全英オープンの4つを指す。

しかし、当時は船での移動が通常で、

日程的に4つに全て参加するのは無理であった。

また、ベンホーガンも体調的に長い船旅を嫌って、参加する意思はなかった。

しかも、ベンホーガンは、

左目の視力低下からパッティングに悩みを抱えており、少しでもラインとアライメントの狂いを無くすためにセンターシャフトのパターを使用するようになっていた。

 

今では当たり前のセンターシャフトのパターだが、

当時イングランドではセンターシャフトのパターは禁止されていた。

元々イングランドは隣のアイルランドがゴルフ発祥地で、

それを厳格にしスポーツとして体系化した経緯がある。

元々ゴルフは賭けを前提としたマッチプレーが基本。

とてもスポーツと言える代物ではなかった。その為大変ガラが悪く、

それを競馬のように紳士のスポーツとしたのだ。

フォーマルを重んじるイングランドに対して、

カジュアルを好むアメリカは紅茶戦争(正しくはボストン茶会事件)以来、

色んな場面で敵対する。

最後はアメリカ独立戦争に発展することになり、

今でも何処かしら米英の間には変な空気がある。

この流れでゴルフでも多くの確執があった。

 

例えば、今では当たり前のグリーン上のボールマークも

イギリスはダメでアメリカはOK

純粋にストロークプレーが当たり前の現在では考えられないかもしれないが、

マッチプレーは頭脳戦の要素もあり、

自分のボールを相手にぶつけてホールから遠くに飛ばしたり、

うまくいけば自分のをホールに入れるというビリヤード的要素もあったのが

昔のゴルフのルールだったのだ。

 

そんなこんなでイングランドアメリカとの間には

ゴルフに対する考え方に違いがあり、

ルールもその都度違って、 

してはいけないマークをして2打罰を課せられたり、

プレー以外のルールでも争っていたのだ。

 

ベン・ホーガンの劇的なマスターズの勝利で

全米プロ、全米オープンと合わせ、

3大メジャータイトル手中に収めた。

そうすると注目されるのは残りの全英オープン制覇。

事故の影響で、時間が掛かる船の旅を嫌い、

参戦しなかったベン・ホーガンだが、

生涯グランドスラム制覇を願う声が日増しに高まりを見せた。

 

しかし、センターシャフトのパターを使うベン・ホーガンに対し、

イングランドゴルフ協会はセンターシャフト禁止のルール。

必然的にベン・ホーガンの不参加は避けられないように思われた。 

動かしたのは世論だった。

何と、イングランドのセンターシャフトの古いしきたりに対して

「センターシャフトのパターを受け入れないのは世の中の流れからずれている。

にも関わらず禁止というのは、ベン・ホーガンを恐れての嫌がらせであり、

いかにもケツの穴の小さいイングランドのやり方だ!」

日本で言えば「東京スポーツ」のようなアメリカのタブロイド紙

世論を煽るように吹っ掛けたのだ。

 

小さいイングランドは威厳だけでは食べていけないのも事実

当時からアメリカでは大きなゴルフブームが到来し、

すでにゴルフ界を牽引する立場になっていた。

そのアメリカを差し置いて、

イングランドが頑なに威厳だけを唱えるのも無理が来ていた。

特にドラマティックな復活を遂げ、

しかも最強と言われるベンホーガンに恐れをなして、、、、などと言われては

それこそ威厳のない話であった。

 

1953年、事故から4年、

ベン・ホーガンの選手としての集大成の年となる

  • マスターズ:優勝
  • パン・アメリカン・オープン:優勝
  • グリーンブライヤ・プロアマ:2位
  • コロニアル・ナショナル・インビテーション:優勝
  • 全米オープン;優勝

5戦4勝の成績を収め、

その年の全英オープンの開催地「スコットランド」入りした。

「ホーガン、ついに英国のファンの前へ!」

 

直前まで、

全英オープン出場をはぐらかしていたベン・ホーガンであったが、

ウォルター・ヘーゲン、トミー・アマーをはじめ、

多くのゴルフ界の人物からの勧め、

特に「ゴルフ会の発展のため」という言葉はベン・ホーガンの心を動かした。

また、7月開催で危惧していた気温もさほど低くないこと、

そして、前述のセンターシャフトのパターがクラブルール改正により、

認められたことも大きかった。

 

英国のゴルフライターは

物静かなベン・ホーガンに対し、

アメリカのゴルフ大使に相応しい紳士」と評した。

しかし、当の本人は内心それどころではなかった。

自然のままの状態に近いスコットランドのコースはまるでベアグラウンドのようで

しかもディボットだらけという事を聞いていたからだ。

 

1946年ライバルのサム・スニードが

比較的綺麗なセントアンドリュース全英オープンを優勝したが、

翌年のスコットランド開催にはディフェンディングチャンピオンとして出場しなかった。

それほど、悪い条件とも言えるコースだった。

当時23歳でその後5回の全英オープン優勝を飾るピーター・トムソン

こう回想する。

「ホーガンがスコットランドのリンクスに戸惑いを感じたというがそれはないと思う。

リンクスも普通のコースも同じ。問題はボールの打ち方だ。」

 

ベン・ホーガンのダウンブローは

強風とペタペタの乾いたコースでこそ威力を発揮したのだ。

野生的な戦いが強いられるスコットランド

クリーンにボールを捕らえるホーガンのスイングは

地元ファンの心をも捉え、多くのファンを引き連れた。

ただ、ベン・ホーガンのグリーンでのパッティングは見ていられないほどであった。

ペタペタのフェアウェイに対して、ふかふかすぎるグリーンに手こずったのだ。

ベンに付いたキャディは

パットの度に「ウッ!」とか「あっ!」とか声を上げ、

遂にベンに「最後まで黙ってろ!」と釘を刺される。

 

首位タイで迎えた最終日、4ラウンド目(当時は最終日2ラウンド36ホール)がスタート。

15ホールを終えたホーガンは後ろの組のアントニオセルダのスコアを確認。

自分が2打差をつけてリードしている事を知ると、

16番235ヤードのPAR3のティーグラウンドに立った。

低いフラットで力みのないコントロールショットで放たれたボールは

ピンから3メートルの位置につけた。

ホーガンはティーグラウンド脇にいたCBSラジオリポーターのジョン・ディアーに

「これで俺の勝ちだ、すぐに行って放送(優勝)の支度を始めていいよ!」と告げた。

 

その通り、このバーディーパットを沈め、

最終18番でもバーディーを決め、

4打差をつけ全英オープン優勝。

1953年、同一年3大メジャータイトル制覇。

この時の記念ボール「タイトリスト2番」は全米ゴルフ協会博物館に飾られることになる。

 

帰国するベン・ホーガンが乗った「ユナイテッド・ステーツ号」

自由の女神像の脇を進む。

ラジオ、テレビ、新聞のカメラマン、記者たち、

そして、それを取り囲む警官、

「お帰りなさい、ホーガン!」の横断幕が埠頭にたなびく。

そのままニューヨークブロードウェイのでの優勝パレード、

推定15万人が訪れたと言われる。

これだけの騒ぎは第二次世界大戦終戦後のマッカーサー元帥帰国以来だったという。

約4ヶ月にわたるベン・ホーガンの6戦5勝

うちメジャー3勝。

「私は涙もろいタイプの人間とは正反対の人間だが、今日だけは嬉し涙が込み上げます。

今日以上にいいことは、私の人生に2度と来ないでしょう、、、」そう呟いた。

 

奇しくも、彼の言葉の予言通り、

ベン・ホーガンにとってこの全英オープン制覇が最後のメジャーとなった。

 

彼が偉大なゴルフキングある所以は

これら一連の選手としての輝かしい成績だけではない。

ゴルフに対する真摯な姿勢は

当時真面目な働き虫と揶揄された「日本人」とも表現された。

 

「僕があんまり練習ばかりするのを見て、皆んなは僕を馬鹿にしたもんだ」

ベン・ホーガンがそう回想する様に、

ゴルフのみならず、スポーツは一部の才能に恵まれたもので

練習でどうにかなるものではない、

欧米のスポーツ界には今でも残る風潮だ。

そうしていつの間にか日本もそれに流されて、

野球の投手などでも球数制限というルールが出来た。

 

ベン・ホーガンは自分のクラブを他人に絶対触らせなかったし、

スイングに向かう時の心構えはまるで「居合抜き」を思わせた。

無口で鋭い眼光で、

変わった奴だが、とにかく金属音のするもの凄いボールを打つ奴がいる

毎日毎日ゴルフ日記をつけて、

スイングの課題と気がついたことを書き留め、

誰よりも早くレンジで練習し、

暗くなるまでボールを打った。

170センチ64キロの体格はアメリカ人としては小さかったが、

努力と強い精神力で26歳でようやくツアー優勝。

そこから自分に自信が持てるまでさらに10年を費やした。

 

そこまでゴルフにのめり込んで

考えて考えて考え抜いたベン・ホーガンは

ボール、クラブ、そしてレッスンで多大な貢献を残す。

それらの話はまたの機会に、、、、